「ダウンサイジング化」に乗らなかった国内パソコンメーカーの栄枯衰退史〜半導体入門講座(12)

今では個人に一台の「パソコン」があるのが普通ですが、パソコンが普及する前は数億円もするメインフレーム「コンピュータ」が大企業に1台しかない時代がありました。当時の国内パソコンメーカーは、ハイエンド技術に磨きをかけることだけを一所懸命で1990年代はじめまでメインフレーム向けDRAM市場で日本半導体が活躍しましたが、米国を中心に世界でダウンサイジングが進んでいることに注意を払ってきませんでした。今回は、ダウンサイジング化が進んだ背景と流れ、日本のメーカーたちがその流れに乗れなかった理由についてご説明します。

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コンピュータの「ダウンサイジング化」を進めた米国、ハイエンド技術に固執した日本

MPU(Micro-Processing Unit:マイクロプロセッサ)とメモリの発明が世の中を変えてきたが、その過程でコンピュータのダウンサイジングが加速してきたことを指摘しておかなければならない。Intelがこれらを発明した当初、コンピュータ技術者の多くは、CPUを「おもちゃ」と考えていた。当初の4ビットマイクロプロセッサ「4004」が出た1971年当時はほとんど見向きもされなかった。

Intelはそれにもめげず、1974年には8ビットマイクロプロセッサ「8080」を開発、これをベースにしたパーソナルコンピュータが生まれた。4年後の1978年には16ビットの8086を開発、NECがこれを採用したパソコン「NEC PC-9801」を1982年に発表した。

この当時NECの9801パソコンを開発していたのは、コンピュータ事業部ではなく、民生部門だった。NECのコンピュータ事業本部のエンジニアは未だにパソコンをコンピュータと認めず、ハイエンド技術に磨きをかけることだけを一所懸命にやっていた。この意識は、NECに限らず、日立製作所や富士通、三菱電機など他のコンピュータメーカーも同様だった。

Intelは2018年8086プロセッサの登場40周年を記念して第8世代 インテル Core i7-8086Kプロセッサを発売。(提供:Intel)
Intelは2018年8086プロセッサの登場40周年を記念して第8世代 インテル Core i7-8086Kプロセッサを発売。(提供:Intel)


ところが米国では、メインフレームコンピュータからオフィスコンピュータ(オフコン)、ミニコン、ワークステーションへとダウンサイジングが進んでいた。当時のメインフレームコンピュータは大企業に1台所有していたものの、主に社員の給与計算に当てられていた。

コンピュータで数値計算するため、FortranやCOBOLなどの高級言語でプログラムを書き、コンピュータにプログラムを打ちこむプログラマーやシステム担当者に依頼すると3日後に処理します、と言われることが多かった。このためコンピュータを使って数値計算したいエンジニアや、シミュレーションしたいエンジニアはその期間、待たされた。

コンピュータには待ち時間という概念があった。しかしこれでは仕事が途切れてしまうため、エンジニアは性能をもっと落としてもよいから、事業部で1台買える価格のコンピュータが欲しいと考えるようになった。これがダウンサイジングの始まりだった。

当時メインフレームコンピュータの主要ユーザーは銀行と製鉄所であった。銀行は言うまでもなくお金の出入りを管理する。製鉄所は、溶けた鉄の生産管理を正確に制御するためであった。メインフレームコンピュータは1台数億円もするため、時間貸し(今でいうサブスクリプションのビジネスモデル)やリースが多かった。

しかし一般企業の人たちは、高価なメインフレームではなく、事業部に1台買える程度の数千万円レベルのコンピュータを望んだ。高度な科学技術計算を行う場合では帰宅前にコンピュータを走らせ、翌日会社にくると結果が出ている、という程度のマシンでもよかった。待ち時間がないため、実質的にこちらのミニコンやオフコンの方が計算速度は速かったからだ。

この結果、コンピュータは大企業に1台から事業部に1台、部や課に1台、と広がり、そして個人に1台へ、すなわちメインフレームからオフコン/ミニコンからパソコンへと流れていった。これがダウンサイジングだ。

残念ながら、日本のコンピュータ業界はメインフレームに固執し、IBMを追いかけ、これが最先端技術だと信じていた。しかし、メインフレーム市場は次第に先細り、現在に至っている。最近は、コンピュータ=パソコンと言ってもいいくらいにパソコンが当たり前になっている。

日本の国家プロジェクトがことごとく失敗したことと、コンピュータで米国に負けたこととは同じことを表している。スーパーコンピュータのように演算を最優先するシステムではまだ日本は負けていないが、市場がどこにあるかを忘れてハイエンドを追求したのが日本の惨敗の原因だった。

日本のNEC、パソコン「PC-9801」を開発した民生のパソコングループは、Intelと密接に手を組み、IntelのMPUの進展とともに、「キューハチ」をゆるぎないブランドに持ち上げた。

コンピュータグループはメインフレームやスーパーコンピュータにしか興味を示さなかった。各社のコンピュータ事業部が経済産業省と組んで、国家プロジェクト「第5世代コンピュータ」を推進したが、米国を中心に世界でダウンサイジングが進んでいることに注意を払ってこなかった。数年前、Qualcommのエンジニアに、「第5世代コンピュータとは結局、パソコンのことでしたね」と言われたことが強く筆者の耳に残っている。


半導体でもDRAMに固執した日本は「ダウンサイジング化」を軽視

半導体でも同様で、ダウンサイジングの動きを半導体事業の人たちは見ていなかった。1980年代中ごろから1990年代はじめまで日本半導体が活躍した市場はメインフレーム向けDRAMであった。実際、メインフレームコンピュータは1990年くらいまで活躍した。日本のDRAMは品質が高く、米国のメインフレームメーカーがこぞって採用した。1980年代の中ごろに日本の半導体は世界市場で大きな市場シェアを占めたが、DRAMが日本の半導体をけん引した。

コンピュータのダウンサイジングがじわじわとやってくることに日本の半導体メーカーは気にもせず、相変わらずメインフレーム向けの高価なハイエンドDRAMを作り続けていた。ダウンサイジングに最も敏感だった会社は実はMicron Technology(以下Micron)だった。Micronは、米国の半導体メーカーのIntelやMotorola、Mostek、National Semiconductor(現在Texas Instruments(TI))などDRAMを手掛けていたメーカーがほとんどDRAMから撤退し始めた時に、これからDRAM生産に力を入れると宣言した。1983〜1984年頃のことだ。

MicronのDRAM関係者が当時来日すると聞きつけ、同社の製品を扱っていた日本のある商社のオフィスで当時のDRAM責任者に取材した。質問は単純だった。「米国の半導体メーカーがみんなDRAMから撤退するのに、あなた方はなぜDRAMを進めるのか。あなた方に勝ち目はあるのか?」と聞いたところ、答えは明快だった。

「今はダウンサイジングが進みつつある。10年後には必ずパソコンの時代が来る。私たちの狙うDRAM市場はメインフレームではなく、パソコン向けだ」と答えた。とても信じられなかった。パソコンはコンピュータの姿からはほど遠く、まだ「おもちゃ」としか見なされなかったからだ。


パソコン普及により小型で安価なDRAM製造企業が日本より優位に

同じDRAMでも、実はメインフレーム向けと、パソコン向けでは設計も製造もまったく違う。DRAMは揮発性のメモリで1秒間に何回かリフレッシュしないとメモリ内容が喪失するほど繊細である。もし途中で大きなノイズが入ると、貯めている電荷を打ち消し合い、誤動作を起こしてしまうことがあった。

集積回路(Integrated Circuit:IC) パッケージ内の材料に含まれる微量の放射線同位元素がDRAMのメモリセルに当たり、1と0が反転することをIntelのエンジニアが見つけた。ただ、DRAMに加える電源電圧をゼロにリセットすると、メモリは正常に動作した。このため、故障(ハードエラー)ではなく、ソフトエラーと呼んだ。

このソフトエラーを防ぐため、メインフレーム用のDRAMでは、冗長回路や誤り訂正回路などを集積した。この結果、チップ面積はどうしても大きくなってしまうことになった。

これに対して、Micronが狙うパソコン市場では、DRAMに冗長回路や誤り訂正回路を集積しない、と言い切っていた。電源電圧をゼロにするということは、いわゆる再起動(リセット)を掛ける、ということである。つまり、私たちはパソコンが固まって動かなくなる時に、再起動させることがある。この固まるというフリーズ状態がソフトエラーによって起きるのだ。

今ではMicronのようにメモリチップ上に誤り訂正回路を集積しない方式がメインである。DRAMはパソコンの価格を決める重要なコンポーネントであるためだ。DRAMチップは、できる限り安くすることが最優先されるため、メモリモジュールボード上に搭載するケースが多い。

例えば、1ビットエラーの誤り訂正では、8個を一組とした1バイト単位のメモリシステムではなく、(誤り検出符号である)パリティビット(parity bit)を追加する9ビット単位のメモリシステムである。ミッションクリティカルな応用では、誤り訂正回路を付けることは必須であるが、パソコンではコストを最優先するため付けないことが多い。

Micronは、パソコン向けにとにかく安く作ることに集中し、チップを小さくするため、微細化を推進した上に、チップ上に隙間を少しでも排除するためレイアウトの天才エンジニアをMostek社から引き抜いた。さらに製造工程はできるだけ短縮するため、マスク数を大きく減らし、少ない工程でDRAM製品を作れるように工夫した。

日本のDRAMメーカーはマスク数の削減に驚き、マスク数を減らしてはDRAMを作れない、というエンジニアが多かった。Micronのチップは他社よりも小さかったため、コスト競争力があった。

MicronのDRAM技術をライセンス供与されたサムスンは、1990年代にMicronに先んじてDRAMを商品化した。1995年にはDRAMで日本の富士通や三菱電機を抜き、世界Top 10ランキングの6位に入った<表1>。上位には、トップのIntel、2位NEC、3位東芝、4位日立製作所、5位Motorola、という順位だった。

<表1> 世界半導体メーカーのTop 10ランキングの変遷(Gartner Dataquest、IHS iSuppli、Gartnerの資料より筆者作成)

この年を境に、日本のメーカーがどんどん落ちて行き、韓国のサムスンが上がっていった。2000年には、1位Intel、2位東芝、3位TI、4位サムスン、5位NEC、6位STMicroelectronics、となった。もはや日立製作所はTop 10圏外だった。

当時、NECの半導体グループ経営トップに、パソコン用のDRAMはやらないのですか、と質問した時の答えが「NECは安売り競争に巻き込まれたくないから」、という返事だった。当時の経営トップは、韓国が上がってきたのは安く作っただけという評価しか下さなかったのである。コンピュータのトレンドは、着実にダウンサイジングに向かっていることに気が付かなかった。

1990年代中ごろにMicronが日本勢と同じ集積度のDRAMを出してきて初めて、日本の経営者もエンジニアも驚き、マイクロンショックという言葉さえ生んだ。韓国のサムスンが日本勢の集積度で日本よりも安いDRAMを出してきたときは人件費の安い国で作ったもの、という見方しかしていなかったが、米国のMicronもサムスンと同じ価格のDRAMを出してきたために驚いたのである。


著者:津⽥建二(つだ・けんじ)
技術ジャーナリスト。東京⼯業⼤学理学部応⽤物理学科卒業後、⽇本電気(NEC)⼊社、半導体デバイスの開発等に従事。のち、⽇経マグロウヒル社(現在⽇経BP 社)⼊社、「⽇経エレクトロニクス」、「⽇経マイクロデバイス」、英⽂誌「Nikkei Electronics Asia」編集記者、副編集⻑、シニアエディター、アジア部⻑、国際部⻑など歴任。


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