
『TOKYOオリンピック物語』の著者、野地秩嘉氏の連載第19回は、引き続きハーフタイムミュージックを紹介します。1964年東京大会で多くの人々に歌われ、愛された三波春夫の「東京五輪音頭」。歌詞のなかにはレスポンス部分があり、拍手するパートもあるため、ハーフタイムにはなくてはならない曲だといいます。今回は、BGMのルーツやコロナ禍に合うハーフタイム用の曲、今回の東京大会用に作られた「東京五輪音頭-2020-」など、スポーツイベントと音楽にまつわる物語をご紹介いたします。
スポーツプレゼンテーションとBGM
スポーツプレゼンテーションとはハーフタイムのショーだけではない。競技会場全体に流れるバックグラウンドミュージック(BGM)もまたその一部だ。そして、カラオケタイムとはハーフタイムのショーとBGMが合体した演出だろう。
BGMについての歴史は明確だ。
「BGM産業は第二次大戦前夜に、イギリスとアメリカではほぼ同時にスタートした。それが戦後、ナチス・ドイツの発明品であるテープレコーダーの導入によって長時間化され、とあるアメリカ人エージェントによって1950年代末に我が国に持ち込まれた」(『エレベーター・ミュージック・イン・ジャパン』田中雄二 DU BOOKS)
日本で本格的にBGMが導入されたのはナショナル金銭登録機(レジスター 日本NCR)の大阪工場と大磯工場で、1958年のことだ。その後、工場、オフィス、公共施設、店舗とBGMは導入され、「日本は世界一のBGM消費国」と呼ばれるようになった。確かに、日本のホテル、レストランではBGMが流れているけれど、海外ではまずそんなことはない。
そして、BGMが日本のスポーツイベントで取り上げられ、スポーツプレゼンテーションのように活用されたのは1972年の札幌オリンピックだった。
スキー、スケートなど各競技会場の音楽演出を東洋ビージーエム、日本ビー・ジー・エム・システムと地元の放送局HBC(北海道放送)が担当したのだった。競技会場で流された曲の筆頭は同オリンピックのイメージソング「虹と雪のバラード」(歌 トワエモア 作曲 村井邦彦)である。この曲は競技会場でBGMとなったこともあり、60万枚を売り上げた。
コロナ禍のカラオケタイムに合う曲
コロナ禍であっても東京オリンピック・パラリンピックは開催され、観客も入る。
そして、競技会場における観客への指針は次のようなものだ。
1. 人ごみにおけるマスクの着用、咳エチケットや手洗いの徹底。
2. 手指消毒の徹底、3密回避の実践
3. 騒ぐ、大声で会話する等の飛沫感染リスクを高める行為は禁止。
4. 観戦前の体温・体調チェックや体調が悪い場合の来場の自粛
競技を観戦する人たちはマスクをして席に座ることになる。勝手に立ち上がったり、マスクを外して大声で応援することはできない。鳴り物、楽器類を持ち込むこともできないだろう。
スポーツプレゼンテーションで曲を選ぶ側にとってはそういった観戦マナーを考慮に入れて曲を選ぶことになる。
一例だが、札幌オリンピックで盛んに流れた「虹と雪のバラード」はスポーツプレゼンテーションとして使用される前から、作詞家に対して、「こういう歌詞にしてくれ」と前提条件が付いていた。
「オリンピックを待ち焦がれる札幌の人たちの心情を表していること。
重々しい式典風のものではなく、屋根裏の落第坊主がギターを爪弾いて歌え、なおかつ、何千人もの合唱に耐えうること」
「屋根裏の落第坊主」というのが何を指しているのかが定かではないが、つまり、誰でも口ずさめるように難しい言葉は入れるなといったことだろう。
東京オリンピック・パラリンピックのスポーツプレゼンテーション、カラオケタイムで使用される曲もまた、誰でも口ずさめるもので、かつオリンピック・パラリンピックを待ち焦がれる人たちの心情を表している曲になるだろう。
カントリーロード、スィートキャロライン、東京五輪音頭
カラオケタイムに使用される曲を3曲、挙げておく。
音楽評論家たちが静岡のエコパスタジアムで歌った「カントリーロード」はそのうちの1曲だろう。
「カントリーロード」は1971年に発売され、ビルボードで全米2位の大ヒットとなった曲で歌っていたのはジョン・デンバー。作詞・作曲は彼自身とビル・ダノフ、タフィー・ナイバートによる共作だ。曲の長さは3分8秒。
ラグビーワールドカップ日本大会ではラグビー日本代表チームが日本語の歌詞をつけ、「ビクトリーロード」という題名の替え歌にして歌っていた。静岡の会場では英語を介する観客たちは英語で、日本のラグビーファンはビクトリーロードと替え歌にしてうたっていた。
「スイートキャロライン」もまたラグビーワールドカップで優勝したイングランドが出た試合では欠かさず流れていた。イングランドチームの応援歌だったこともあるが、観客がひとつになるパートが入っているからだ。
同曲はアメリカ人歌手、ニール・ダイアモンドが作曲、編曲したもので、1969年のヒット曲だ。曲の長さは3分21秒。
この曲はメジャーリーグベースボールのボストン・レッドソックスも応援歌として使われている。野球はハーフタイムがないスポーツだが、アメリカン・フットボールやサッカーの試合でハーフタイムミュージックが普及したこともあって、野球でも採用されるようになった。
なぜ、この曲がもっともオリンピック・パラリンピックハーフタイムミュージックに適しているかといえば、観客は英語を知らなくとも歌唱に参加できるからだ。
「スイートキャロライン」とサビ部分を歌った後、オッ、オッ、オーとレスポンス(合いの手)のパートがある。さらに、その後も3回、レスポンスする(so good)パートがある。英語を知らなくてもレスポンスならば誰でもできる。
コロナ禍のなかで行われる大会では最初から最後まで一緒に歌う曲は不向きだ。アーティストとオーディエンスが一体で合唱する曲よりも、シング・アンド・レスポンスの曲が受け入れられる。
日本発のレガシー楽曲
東京オリンピック・パラリンピックでウケる日本のシング・アンド・レスポンス楽曲といえば、それはもう『東京五輪音頭』に決まっている。歌詞のなかにはレスポンス部分があるし、拍手するパートもある。東京オリンピック・パラリンピックのカラオケタイムにはなくてはならない曲だ。
同曲は1964年東京オリンピックのテーマソングで、宮田隆作詞、古賀政男作曲である。各レコード会社の競作で、三波春夫、橋幸夫、三橋美智也、坂本九、北島三郎・畠山みどりといった人たちが唄ったが、もっとも売れたのは三波春夫のそれで、250万枚という大ヒットだった。

三波本人はこう回想している。
「昭和38年の春、私はテイチクから一曲の楽譜を受け取った。曲は『東京五輪音頭』。各社共作であるという。なるほどオリンピックにふさわしいと思った。いつものとおり力を籠めて吹き込みをした。しかし、あの戦争とシベリア抑留生活を体験した私にとっては、本当の意味で世界平和のお祭りの音頭をとるんだと心底思っていた」
「日本は、日本人は、頑張って、こんなに戦後復興を遂げたんですよ、ということを、戦後初めて世界に示すイベントである東京オリンピックはなんとしても成功してもらいたいと思った」
わたしは三波さんご本人にお目にかかり、話をしたことがある。場所は松任谷由実がライブを終えた後の楽屋だった。立ち話だったが、30分ほど会話をした。内容は歌のこと、そして、「お客様」のことだった。
「私が力を籠めて歌うのは来てくださるお客様のためです」とはっきり言っていた。
客のことを考え、客のために自ら全力投球する。誰に強制されたわけでもなく、自然に体と心が動いてしまう。そうせざるを得ないから、力いっぱい歌う。
彼はそう話していた。
サービス精神が旺盛というか、サービス精神そのものの人だった。
なお、東京五輪音頭は今大会用に作られたバージョンもある。「東京五輪音頭-2020-」がそれで、石川さゆり、加山雄三、竹原ピストルが歌っている。パラリンピックについての歌詞を加え、オリジナルの5番を追加したものである。
「お客様は神様です」が信条だった三波春夫が存命だったら、新国立競技場にもやってきただろう。スポーツイベントのレガシーとなったカラオケタイムに感心しながら、彼は「東京五輪音頭」を堂々と歌ったに違いない。
野地秩嘉(のじつねよし)
1957 年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヤンキー社長』など多数。『トヨタ物語』『トヨタ 現場の「オヤジ」たち』がベストセラーに。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。近著は『スバル ヒコーキ野郎が作った車』(プレジデント社)、『トヨタに学ぶカイゼンのヒント71』(新潮選書)。
▽みんさくメルマガ登録用メールアドレス
みんさくメールマガジンにご登録いただくと野地秩嘉氏の新連載「
minsaku-cp01@ek21.asp.cuenote.jp
【ご登録の流れ】
- 上記の登録用メールアドレス宛に空メールを送信
- 自動返信される「仮登録メール」内の本登録URLを押下
- 登録完了!