
『TOKYOオリンピック物語』の著者、野地秩嘉氏の連載第15回は、アシックスからオリンピック/パラリンピックのオフィシャルスポーツウエアを紹介します。同社は夏季大会で、日本代表選手団のオフィシャルスポーツウエア、シューズ、ポディウム(表彰台)ジャケットのほか、応援グッズやボランティアのユニフォームも手掛けます。今回は、1949年創業以来使用者の意見を取り入れ質を向上させてきた科学的実証主義の方針が、夏季大会でもどのように受け継がれているかについて、アシックスの歴史を交えてお話を伺いました。
東京オリンピック1964の重量挙げ
松下直樹はアシックスでオリンピック/パラリンピックの商品開発をしている。生まれたのは1959年だから、東京オリンピックの時は5歳。小学校に上がる前だった。それでも鮮明に覚えているふたつの映像がある。
ひとつは三宅義信選手が男子フェザー級重量挙げで優勝し、金メダルを取った瞬間だ。日本チームにとっての金メダル第一号だったから、優勝シーンは繰り返し放送された。そのため、覚えている人は多い。
三宅選手は東洋の魔女と呼ばれた女子バレーボールチーム、マラソンの円谷幸吉選手と並んで、あの時の東京オリンピックでは忘れられない。
興奮した松下少年はクレヨンで三宅選手が表彰台(ポディウム、podium)に上がった絵を描いた。
母親は少年の絵を誉めた後、古びた箪笥の横に貼り付けた。松下家では長い間、重量挙げを描いた名品がお茶の間のギャラリーを彩ったのである。
少年が覚えているもうひとつのシーンは閉会式の様子だ。各国の選手たちは整列せずに国立競技場にひと塊になって入場してきた。他の国の選手と腕を組んだり、肩を並べたり、お互いに記念撮影をしたり…。開会式とはまったく違うもので、セレモニーではあったけれど、堅苦しい式典ではなかった。選手たちは言葉ではなく、態度でスポーツの世界には国境がないことをリアルに知らせたのである。閉会式の終幕、国立競技場の電光掲示板には「「SAYONARA(さよなら)」と「WE MEET AGAIN IN MEXICO(次はメキシコで )」と表示が出た。少年は文字を見ながら胸がいっぱいになった。
その後、少年は同志社大学に入り、陸上競技部に所属。ハードル選手となる。オリンピックにこそ出場しなかったけれど、ハードルに明け暮れた学生時代。そして。彼はスポーツを一生の仕事にすることにし、アシックスに入った。
現在は同社常務執行役員として、日本代表選手団のポディウムジャケット、シューズ、バッグなど17種類の製品を作製する責任者である。
松下は言った。
「日本代表選手団のオフィシャルスポーツウエア、オリンピックもパラリンピックも担当します。ポディウムジャケットというのは表彰台に上がる時のウエアのことです。シューズは日本代表選手団が表彰式に上がる時に履きますし、選手村でも使用します。この他、Tシャツ、帽子、バッグも作りましたし、応援グッズやボランティアのユニフォームも当社製です」
アシックスが作製するのは日本代表選手団の、選手、監督・コーチなどが使うウエア、シューズ、グッズである。選手が競技に出場する時のユニフォームはそれぞれの競技団体のオフィシャルサプライヤーが担当する。また、サッカー選手のシューズなどは個々の選手がそれぞれスポンサーと契約している場合がある。
そうして考えると、東京2020大会に出場する日本選手のワードローブは実に豊富だ。
選手村のクローゼットに吊るすのは開会式用と式典用の服だ。そして、選手村内で着るアシックス提供のTシャツ、ポディウムジャケット、パンツとシューズ、バッグ。各競技団体が配る練習用と本番用のウエアとシューズとバッグ。むろん、選手が持ち込む私服…。かつての東京大会でマラソンに優勝したアベベ・ビキラは選手村でも本番でも同じウエアにトラックスーツだったという。そうした時代はすでに過去へと消えていった。
現在のオリンピックパラリンピックではウエア、シューズ、グッズが次々と開発され、種類が増えている。それはスポーツマーケティングが進化したからだ。新しい技術に裏打ちされたスポーツウエアはイベントが開かれるたびに注目度が上がる。各スポーツメーカーはイベントに向けて新製品を出す。ワールドカップ、各種世界大会は新製品の見本市ともなるのだが、最大規模のそれがオリンピック、パラリンピックだ。

1959年生まれ。1982年株式会社アシックス入社。2013年アシックスジャパン株式会社マーケティング本部マーケティング統括部長、マーケティング取締役マーケティング統括部長、グローバルスポーツマーケティング統括部長兼アシックスジャパン株式会社取締役、執行役員スポーツマーケティング統括部長、当社取締役スポーツマーケティング統括部長を経て、2020年4月 同社常務執行役員就任。現在、管掌マーケティング統括部、スポーツマーケティング統括部。
始まりはアベベ
アシックスの創業は1949年。鳥取県で生まれた創業者、鬼塚(坂口 旧姓)喜八郎が戦後、神戸の鬼塚家に養子に入り、同地でスポーツシューズの製造販売に着手した時から始まる。鬼塚はタコの吸盤にヒントを得て、体育館のフロアに吸いつくように止まるソールを付けたバスケットシューズを開発した。それを担いで、全国の高校を回り、バスケット部の監督、コーチ、部員に売り込んだのである。
鬼塚はただセールスするだけではなく、つねに部員たちから使用感や改善点を聞き、製品の質を向上させていった。科学的実証主義が同社の方針で、それは今に至るも続いている。
1956年のメルボルンオリンピックでは日本代表選手のトレーニングシューズとして初めて採用され、60年のローマオリンピックではマラソンシューズを提供するまでになった。
鬼塚は現地まで行ってローマオリンピックのマラソン競技を観戦した。自社のシューズが欧米の同種の製品よりも果たして、いい結果を出すことができたかどうか、自分の目で確かめたかったからだ。
ところが…。優勝したエチオピア代表のアベベ・ビキラはなんと靴を履いていなかった。裸足で石畳のアッピア街道を独走し、当時、シューズを履いた残りの選手を置き去りにしたのである。鬼塚はシューズそのものの改良もさることながら、アベベという選手の魅力に捕らわれた。
翌61年、アベベは毎日マラソンに出場するために日本にやってきた。
鬼塚はアベベに会いに行って「裸足と同じぐらい軽いものにするから、うちのシューズを履いてくれ」と口説いた。しかし、アベベは断り、他社のシューズを履いて毎日マラソンで優勝した。64年の東京オリンピックでも、他社製を履いて出場。裸足でなくとも、独走して優勝した。鬼塚にとっては悔しいことだったけれど、それでも、ひとつ、いいことがあった。彼のシューズを履いた円谷幸吉が3位で入賞した。国立競技場に入ってくるまでは2位だった、3位である。64年大会で国立競技場の表彰台に上がったのはマラソンの円谷だけだったのである。
松下は「オリンピックのマラソンでメダルを取った日本代表選手は全員、うちの靴を履いています」と笑顔になった。
「古くは円谷幸吉さん、君原健二さん、森下広一さん。女子ではご存知の面々、有森裕子さん、高橋尚子さん、野口みずきさん。メダリストは男女で6人いらっしゃいます。もちろん、マラソンだけでなく、他の競技のシューズもやっていますし、それだけでなく、トレーニングウエアもやっていますよ」
同社の開発の手法は創業期と変わらない。鬼塚が高校を回って、選手に履き心地や機能性を尋ねていたように、松下や彼のチームもまた選手と会い、話を聞き、練習を見ながらシューズやウエアを開発している。

トレパンからジャージへ
松下が「ご存じでしたか?」と尋ねてきた。
「日本でジャージを初めて作ったのはうちの子会社のニシ・スポーツで、社長の西貞一(故人)さんがその人。西さんは同志社大学陸上競技部出身で、オリンピック選手でした。私は部の後輩だから、そのことを知りました」
ニシ・スポーツに確認すると、「1954年に、日本初、前開き式ファスナー付きのトレーニング・ジャケット及び脚側部にファスナーを付けたパンツを発表」という記録が残っていた。また、アシックスの前身、オニツカタイガーには「タイガーパウ=トレーニングウエアが(ジャージの上下を)1974年に販売」という記録もある。
もともとジャージは和製英語で、語源はニット生地の平編みを指すジャージースティッチ(jersey stitch)のことだ。イギリス海峡にあるジャージ島の漁師が着ていた厚手の編地で、特にスポーツ用だったわけではない。寒さを防ぐための厚手のセーターだった。日本では細い糸でジャージ編みにした生地をニシ・スポーツが運動着に仕立てたのである。当初はトレーニングウエアという名称だったのが、いつの間にかジャージと呼びならわされるようになった。なお、アメリカではむろんジャージとは言わない。トラックスーツと呼ばれている。
さて、ニシ・スポーツの記録は正しいと思われるけれど、ジャージは開発されて短期間のうちに普及したわけではない。ジャージが中学校、高校、大学の運動着になったのは1970年代に入ってからだろう。
松下は思い出して、そして、吹き出しながら説明する。
「僕が中学生になった頃(1974年)、体育の時間にみんな布帛の白いトレパンを履いてました。普通のズボンと同じつくりでしたから四股を踏んだり、スクワットすると股のところが破れてしまうんですよ」
彼が言うとおり、「白いトレパン」は布帛生地を縫い合わせたものだった。現在、病院の看護師さんが履いている白いパンツを思い浮かべればいい。手足を大きく動かすには窮屈な衣料で、膝を屈伸したり、大きく足を上げるには向かない。一方、上着は丸首の綿のシャツだった。肌着と同じ編地だから伸縮性がある。夏の運動着は丸首シャツで、冬になったら、その上にセーターを着たりしていた。ジャージの上着はその頃はまだ登場していない。
そんな時代にデビューしたジャージは機能性において優れていた。上下ともに編地だから伸縮性がある。四股を踏もうが、スクワットを繰り返そうが、股が裂けたりしなかった。上は前開きのファスナー付きで、下は脚のひざ下部分の側面にファスナーが付いていた。ジャージは「人間の動きを解放する革命的スポーツウエア」(松下)だったのである。
ジャージはたちまち日本中の学校体育で使われるようになり、修学旅行の時はパジャマ代わりにもなった。大学の運動部、社会人も使うようになり、一般の人々もトレーニングウエアと言えばジャージと認めるようになった。一日中、ジャージを着て過ごすニシ・スポーツは特許を取ろうという気もなかっただろうから、たちまち多くの会社がジャージを作るようになっていった。
ジャージは革命的ですよとつぶやきながら、話を進めていた松下はぽつりと言った。
「今度、もっとも苦労したのはポディウムジャケットですね。当社の機能性追求の歴史とノウハウが刻み込まれています」
《中編へ続く》
野地秩嘉(のじつねよし)
1957 年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヤンキー社長』など多数。『トヨタ物語』『トヨタ 現場の「オヤジ」たち』がベストセラーに。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。近著は『スバル ヒコーキ野郎が作った車』(プレジデント社)、『トヨタに学ぶカイゼンのヒント71』(新潮選書)。
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