夢を見てみようじゃないか《AOKI~公式ユニフォーム:前編》 Tokyoオリンピック2020と技術レガシー(13)

野地 秩嘉(ノンフィクション作家)
野地 秩嘉
ノンフィクション作家

『TOKYOオリンピック物語』の著者、野地秩嘉氏の連載第13回は、AOKIからオリンピック/パラリンピックの公式ユニフォームを紹介します。紳士服やスーツの専門店として知られているAOKIですが、夏季大会では、1,600人を超える日本代表選手団の開会式用と式典用公式服装や、テクニカルオフィシャル(審判団、技術役員)のユニフォームをデザイン、作製するといいます。今回は、1964年の東京大会観戦で創業者が抱いた「いつか商売を成功させて、オリンピックの審判団の服を作りたい」という夢が今回の夏季大会にて実現されたエピソードに加え、ユニフォーム素材の技術的な進化についてお話を伺いました。

1964年10月15日 国立競技場

 アジアで初めて開かれた東京オリンピックが始まって6日目。旧国立競技場ではマラソンと並んで人気のある種目、男子100メートルの準決勝と決勝が1日のうちに行われていた。
 準決勝では追い風5.28メートルの非公認ではあるものの、9秒9という10秒を破る大記録を打ち立てたのがアメリカのボブ・ヘイズ。のちにアメリカンフットボールの選手としてもスターになる男だ。

「褐色の弾丸」とも呼ばれた当時のボブ・ヘイズ ©Everett Collection/CSU Archives/Everett Collection
「褐色の弾丸」とも呼ばれた当時のボブ・ヘイズ ©Everett Collection/CSU Archives/Everett Collection


 決勝が行われたのはその日の午後である。フィールドに出る前、ヘイズは自分のスパイクを持ってこなかったことに初めて気づいた。選手村のトラックまで取りに戻る時間はなかった。ヘイズは仕方なく、チームメートのスパイクを借りて走ることにしたのである。しかも、彼が走るのはもっとも不利とされる第一レーンだった。現在では準決勝を走った選手のうち記録のよかった上位4人が3,4,5,6という中央のレーンを走る。ところが、当時は決勝に残った選手全員が抽選でコースを割り振られることになっていた。ヘイズは第一レーンを引いたのである。

「位置について」

 号砲が鳴った。

 彼はスタートからダッシュした。上体を揺らすダイナミックな走りで前へ出る。まったく他の選手を寄せ付けない。他人の靴だろうが、不利なコースだろうが、ヘイズには関係なかった。2位以下に大差をつけて、ゴールに飛び込んだのである。結果は世界タイ記録、オリンピック新記録(どちらも当時)の10秒0。世界一速い男の称号と金メダルを獲得したのだった。

 ヘイズがゴールを駆け抜けた瞬間、スタンドで立ち上がり、拍手を送った男がいる。
 それが青木拡憲(ひろのり)。

 後に紳士服チェーン店のAOKI(アオキ)を興し、一部上場企業に育て上げるのだが、この時はまだ仕入れた背広を抱えては長野市で売り歩く、若く無名の行商人だった。

 青木は振り返る。
「私は長野商業高校の時、陸上の選手でした。100メートル12秒1という、当時の高校生としてはけっこう速い記録を出していたんです。卒業してからは背広の行商をしていたのですが、高校陸上部の関係者から、オリンピックのチケットをもらったんです。ええ、友達とふたりで見に行きました。スタンドの一番上からでしたがボブ・ヘイズの9秒9の走りも見ました。もちろん決勝まで見てますよ」

 青木は26歳だった。大学には進まず、安い背広を仕入れては売り歩くという生活だったから、上京してオリンピックを見るなんてことは彼にとってはとんでもない贅沢だった。しかし、せっかく手に入れたチケットだったし、世界の一流選手を見てみたかった。オリンピックという祭りにも参加してみたかった。思い切って仕事を休み、長野から出てきたのである。

「決勝は競技場全体が歓声に包まれて、ワーッと盛り上がっていました。しかしねえ、私はそんなに喜べなかったんですよ。ヘイズのゴールを見るまでは来なければよかった、商売していればよかったと後悔していました。もう頭のなかは資金繰りでいっぱい。早く長野に帰って、背広を売りにいかなければとそればかり考えていた。ところが、世界新記録の瞬間を見たからね。準決勝から決勝までは半世紀以上たった今でも覚えている」

 当時の日本に既製品のスーツを売る量販店はなかった。デパートでも一般の洋服店でも背広は仕立てるのが一般的だったのである。また、「吊るし」と呼ばれる既製品もあるにはあったけれど、それでさえ決して安いものではなかった。仕立てにせよ、吊るしにせよ、背広というものは大学卒の初任給でやっと一着買えるほど高価なものだったのである。

 青木は県内に定期的に立つ背広の市場へ行き、他の業者に交じってセリで落とし、それを客に売って歩いた。地元の篠ノ井だけでなく、上田や松本近くで開かれる市場まで出かけ、質のいい品物を安い値段で落とす。支払いは小切手だ。ただし、3日後には決済されてしまう。青木にとって3日間が勝負だ。仕入れた背広を売らなければ小切手は不渡りになって、たちまち倒産だ。

 ボブ・ヘイズは100メートル決勝で世界記録、オリンピック新記録を出した。しかし、青木だって、毎日、背広販売で記録を出さなければ食べていけなかったのである。彼もまた行商人としては短距離走者だった。薄氷を踏む思いで、東奔西走していたのが彼の1964年だった。

 さて、話は国立競技場に戻る。決勝の後、席を立つ観客もいたが、青木は審判団を見ていた。いや、審判が着る制服と帽子をじっと見ていた。

「スマートで、かっこよかった。オレは今は行商だ。だが、いつか商売を成功させて、オリンピックの審判団の服を作りたい」
 そうは言ったものの、すぐに彼は「夢だな」と頭を振って自嘲した。夢のまた夢だ。そんなことができるわけがない…。

 しかし、ふいに考え直した。
 夢を見てみようじゃないか。

 国立競技場から長野に戻る列車の中で、「オレは本気になる」と決めた。むろん、それまでいい加減な気持ちで仕事をしていたわけじゃない。しかし、具体的な目標はなかった。一軒の店があればいいとか、自転車操業から抜け出したいと気持ちはあったが、夢とか希望を持って毎日、働いていたわけではなかった。だが、その時から彼は他人に「夢がある」と語ることのできる人間になった。

 翌1965年、彼は篠ノ井の駅前に小さな紳士服の店を出し、背広を売り始めた。相変わらずの苦しい日々だったが、人の3倍は働いた。

 半世紀が過ぎた。青木は紳士服専門店、結婚式場、複合カフェ、カラオケ店舗、フィットネスなどを擁し、従業員数4,000名、年商1,800億円の企業規模を持つグループの代表を務めている。自社製スーツを年間に100万着売っている。

 青木は言う。
「売れるものを仕入れて、売りまくるだけなら交渉力があればいい。しかし、商品をゼロから作って売るとなればマーチャンダイジングもいればマーケティングも必要だ。どのくらい売れるかと予測ができなければ作れないし、売れない。私はあの日から勉強と仕事ばかりしてきました。
 そして日本にオリンピック・パラリンピックが来ると決まってからは会社の才能を集めて公式服装のコンペに挑みました。うちの社員は命がけの仕事をしています。むろん私もこの仕事に賭けてます。だって、私にとってオリンピックが来ることは夢のまた夢だと思っていたのだから」

 AOKIは今回の大会ではオリンピック・パラリンピックを含めた1,600人を超える日本代表選手団の開会式用の服装と式典用の公式服装を作製する。加えて青木がやりたかったテクニカルオフィシャル(審判団、技術役員)5,500名のユニフォームをデザイン、作製することも決まった。

 青木の夢を実現させたのは組織委員会理事の高橋治之をはじめとするチームだ。彼らがオリンピックを呼んできたから、青木の夢はかなった。それもあって青木は自分よりも年下の高橋を「私の師であり、恩人です」と礼を尽くして人に紹介している。


株式会社AOKIホールディングス 代表取締役会長 青木拡憲(あおき・ひろのり)氏。
1938年、長野市生まれ。58年「洋服の青木」を長野市で創業。76年8月AOKIホールディングスを設立し、代表取締役社長に就任。当時、大卒の初任給で1着しか購入することができなかったスーツを、毎日日替わりで着替えることができるようにとスーツの流通革命を実現。79年、全国にチェーン展開スタート。91年9月、東証一部上場。以後、アニヴェルセル・ブライダル、エンターテイメントと事業を拡大。2010年6月代表取締役会長に就任。
株式会社AOKIホールディングス 代表取締役会長 青木拡憲(あおき・ひろのり)氏。
1938年、長野市生まれ。58年「洋服の青木」を長野市で創業。76年8月AOKIホールディングスを設立し、代表取締役社長に就任。当時、大卒の初任給で1着しか購入することができなかったスーツを、毎日日替わりで着替えることができるようにとスーツの流通革命を実現。79年、全国にチェーン展開スタート。91年9月、東証一部上場。以後、アニヴェルセル・ブライダル、エンターテイメントと事業を拡大。2010年6月代表取締役会長に就任。


ポリエステル

 同社で東京オリンピック・パラリンピック日本代表選手団公式服装の企画担当になったのは商品戦略企画室の本田茂喜である。本田は高校を出た後、専門学校でデザインを学び、ファッションデザイナーのドン小西(小西良幸)が設立したメンズブランドFICCE(フィッチェ)UOMOに入社した。7年間、デザイナーとして経験を積んだ後、AOKIに中途で入った。ちなみにFICCEは当時、最先端のブランドでエルトン・ジョン、ビートたけし、谷村新司が愛用していたことで知られる。

 転職した本田はハイエンドのファッションから一般の人が着る日用のスーツをデザインするようになった。ちょうどバブルが崩壊した後のことだった。
 その時期から、人々の服への志向は大きく変化し始めた。オフィスウエアといえばスーツ一辺倒だったのが、カジュアル化し、ジャケットとパンツといったセットアップを着るようになったのである。

 本田は振り返る。
「私が入社してからスーツに対する人々の意識は大きく変わっています。毎年毎年、変化が続いたので、時代についていくのに勉強しなければならなかった。まず2000年頃から量販店のスーツにはスペアパンツが付くようになりました。上着が1枚でパンツが2本という売り方が定着したんです。

 次はスーツの軽量化です。これは生地がウールからポリエステルの混紡に変わったことが大きい。そして、機能性。伸び縮みする素材を使ったスーツが増えてきました。ジャケットとパンツのセットアップが増えてきたのもこの頃です。また、全体として、デザインの進化もありますが、素材の進化により、機能性がより重んじられるようになってきました。その流れを汲んで、東京オリンピック・パラリンピックの公式服装にも機能性、冷涼性などを盛り込みました」

 本田が言うには、「カジュアル化が進んだとはいえ、それでも日本は世界一のスーツ大国」とのことだ。

 たとえばアメリカ、ヨーロッパでは経営者、金融マン、弁護士は高価な仕立てのスーツを着る。ホワイトカラーの一部もスーツショップや百貨店で1万円、2万円で買えるようなスーツを着る。しかし、ITやベンチャーのビジネスパーソン、サービス業、若者はそもそもスーツを着ることはなく、ジャケットとパンツですらない。就職面接にリクルートスーツを着ることもない。毎日、スーツを着てベンチャー企業に通勤したら、「恐竜みたいな格好だ」と言われても不思議ではないのである。
 アジアの人々もまたスーツを着るビジネスパーソンが多いとは言えない。温暖な国の人々は半そでシャツにカジュアルパンツで仕事をする。

 それに比べると、日本はカジュアル化が進んだとはいえ、それでもまだスーツを毎日のように着るビジネスパーソンは少なくない。ただし、コロナ禍で在宅勤務が進んだこともあって、スーツの需要は減り、マーケットは縮小している。

 そうして現在、スーツの素材はウール、コットン、麻といった繊維から、軽くて通気性のいいポリエステルに変わってきている。
 ポリエステルは石油を原料とした素材の一種で、衣料品にするには素材からポリエステルの繊維を作る。ポリエステル繊維には大きく分けて3種類あり、一般的なのはPoly-ethylene-terephthalateと記すもので、略してPETだ。飲料用の瓶や缶を駆逐してしまった、あのペットボトルの原料である。

 ポリエステル繊維はダクロン(デュポン)、テトロン(R)(帝人と東レ)などの商標で呼ばれることがほとんどだ。デパートや量販店でスーツを買ってタグを見ると、テトロン100パーセントなどと書いてあるが、それはポリエステル繊維のことなのである。

 本田はなぜ、ポリエステルのスーツが広まったかを教えてくれた。
「ポリエステルを生地にしますと、他の合成繊維、たとえばナイロンなどより、染色の耐久度があるので色落ちしにくい。また、水分の影響を受けないので、伸びたり縮んだりが少ない。ウール、木綿などは洗ったら縮んだり、微妙なシワが出たりしますけれど、ポリエステルはそれがない。ただし、日本ではイメージとして安っぽいとされていましたから、ダクロン、テトロンと商標で呼ぶのです。

 1980年代後半、日本の繊維業界は『新合繊』を開発しました。『新合繊』は合繊メーカーと生産地の共同技術開発により生まれたもので、海外でも注目される素材となったのです。
 つまり、昔の安っぽいポリエステルではなく、大きく進化した新しい質感の新合繊なんです。もともとポリエステルはウールのような繊維を目標として作られたものでしたが、天然繊維とは質的に距離感があった。そこで射出するノズルを小さくして糸を細くしたりして格段に進化させました。

 ツヤツヤ、ピカピカしていない新しいポリエステル繊維が誕生しました。加えて、今のポリエステルは糸の段階から服の機能を設計できる素材になっています。
 風合いをソフトにしたい場合はそういう糸を作る。伸びる率もどれぐらい縦に伸びたらいいのか、それとも横に伸びたほうがいいのかなどストレッチも設計できる。狙いに対して糸を設計できるようになっています」 

 今、わたしたちが着ている服の素材には知らず知らずのうちに新合繊が使われている。つまり、進化したポリエステル素材だ。

 ちなみに、新合繊は決して安くない。ウールとほぼ価格は同じだ。AOKIで売っている東京2020オリンピックエンブレムスーツは3万9千円だが、素材をウールに変えたとしても値段はさほど変わらないという。


東京オリンピック・パラリンピック日本代表選手団公式服装

 AOKIがオリンピックにかかわった最初のきっかけは2013年9月のことだった。前述のように東京オリンピック・パラリンピックの招致団が着用する公式ウエアを担当してからだ。
 次に本田のチームは平昌冬季オリンピック(2018)の日本代表選手団が着る公式服装に応募し、プレゼンを経て選ばれた。平昌冬季オリンピックでは約260人の日本代表選手団の式典用の服を作製している。
 そして、平昌の経験を生かして東京オリンピック・パラリンピックの公式服装作製事業に応募したのは2019年4月、書類による審査とプレゼンテーションを経て選ばれた。

「公式服装はデザインと機能性の融合です。ポリエステルはまだまだ進化していく素材です。私たちは長年、新合繊を扱ってきましたからやれると思って応募し、結果を出したんです」

「絶対に取るぞ」と奮起を促したのは青木だ。
 それはボブ・ヘイズの走りを見て以来、心に大切にしまっていた大切な夢が実現するかもしれないからだった。公式服装の作製が決まるまで、居ても立ってもいられないほど緊張したのは彼である。そして、緊張した分、選ばれた時は誰よりも幸せだった。


《後編へ続く》


野地秩嘉(のじつねよし)
1957 年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヤンキー社長』など多数。『トヨタ物語』『トヨタ 現場の「オヤジ」たち』がベストセラーに。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。近著は『スバル ヒコーキ野郎が作った車』(プレジデント社)、『トヨタに学ぶカイゼンのヒント71』(新潮選書)。


参考情報
・テトロンは、東レ株式会社と帝人株式会社の登録商標です。


▽連載『Tokyoオリンピック2020と技術レガシー』シリーズ一覧
    1. NTT「光の最新実用技術」前編 / 後編
    2. NTT「光ファイバー」前編 / 後編
    3. NEC「顔認証」前編 / 後編
    4. エアウィーヴ「機能性寝具」前編 / 後編
    5. セコム「警備システム」前編 / 後編
    6. ブリヂストン「バリアレス縁石」前編/ 後編
    7. AOKI「公式ユニフォーム」前編/ 後編
    8. ASICS「オフィシャルスポーツウェア」前編 / 中編/ 後編
▽【対談企画】新連載に向けて

 

 

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