生体認証技術が拓く未来。世界中で活用される「顔認証」《NEC~顔認証:前編》 Tokyoオリンピック2020と技術レガシー(5)

野地 秩嘉(ノンフィクション作家)
野地 秩嘉
ノンフィクション作家

『TOKYOオリンピック物語』の著者、野地秩嘉氏の連載第5回は、日本電気株式会社(以後NEC)から顔認証技術を紹介します。「人間ひとりひとりの顔は違う」ことから開発され、主に警備や犯罪捜査などで利用されている顔認証技術。東京オリンピックでは、IDカードを持つ約30万人の選手と関係者が顔認証により会場へのスムーズな入場実現が期待されます。今回は、半世紀以上も生体認証技術を培ってきたNECの顔認証技術に注目し、生体認証研究の歴史に加え、顔認証技術の活用事例についてご解説頂きます。

インドの風景から

 2019年の夏、わたしはインドのデリーにあるフィンテックのベンチャー企業を訪ねた。消費者金融とマイクロファイナンスを組み合わせたような会社だ。

 そこは金持ち向けではなく、町の市場に店を出す商人に1回あたり日本円で500円から1000円を貸し出す。ひと月あたりの利子は10パーセント、年利で120パーセントである。
「120パーセントの年利なんてドロボーだ」と憤慨する人は多いだろう。
 しかし、1000円を貸すとして、ひと月の利子は100円だ。

 インドの銀行は100円を稼ぐために本人確認や信用調査などをやるはずはない。少額のために大企業が取り組むような融資ではないのである。ちなみに途上国の商人に貸すマイクロファイナンスの利率は一般にひと月20パーセントから40パーセントと言われている。それは本人確認、信用調査などの事務手続きを対人で行うから、それくらいの利率になってしまうのだろう。

 ところが、デジタル化が進んだインドでは本人確認、信用調査がスマホ経由で一瞬のうちに済んでしまう。だから、500円を貸して、50円を稼ぐというビジネスが成り立つ。
 その基礎になっているものがアドハーと呼ばれるデジタルを使った本人確認のシステムだ。

 アドハー(Aadhaar)システムは国民識別番号制度のことで、Aadhaarという言葉はヒンディ語でファウンデーション(foundation)の意味である。

 アドハーの技術は指紋、顔、虹彩の認証を組み合わせ、一日最大200万件を登録できる。現在、インド人口の90パーセント、つまり12億人以上が自身の顔写真、両手のすべての指の指紋、両眼の虹彩の情報を登録し、アドハーによる身分証明カードを手に入れている。また、五歳児まではアドハーに登録できないため、計算してみると、インドの成人のほぼ全員が登録して、カードを持っていることになる。

 アドハーが導入される前、インドにとって最大の問題は本人確認だった。たとえば「山田太郎」という日本人が日本国内に1万人くらいいたとする。実際には山田太郎なんて名前の日本人はめったにはいないのだが、ここでは話をすすめるために、よくある名前の典型として山田太郎を採用しておく。

 さて、山田太郎がいくら数多くいたとしても、日本では年齢、居住地、職業などが違うから、本人確認が可能だ。銀行口座を開く場合でも、他人が勝手になりすますことはほぼ防げる。

 しかし、インドの場合、人口は約13.5億人もいる。ガンジー、ネルーといった姓なら確実に100万人以上はいるだろう。居住地や職業の違いくらいでは本人確認ができないから、認証技術として指紋、顔、虹彩の登録が必要になってくる。

 前置きが長くなったけれど、アドハーの基礎となった生体認証技術を開発したのは日本のNECで、同社は東京大会でもアドハーで実績のある顔の認証技術を使う。

 なおNECの指紋、顔、虹彩などの生体認証システムはすでに世界70以上の国、地域に1000以上、導入されている。


肥大化するオリンピック

 顔認証による本人確認が必要になってくるのはオリンピックというスポーツイベントが年々、規模が大きくなっているからだ。
 東京大会はこれまでの夏季大会でもっとも規模が大きな大会となっている。
 組織委員会の予算は123億ドル(1兆3500億円)。
 2014年冬季のソチ五輪が500億ドルかかり、2008年夏季の北京五輪が430億ドルだったことを考えれば決して多いわけではない。ロンドン五輪104億ドル(2012年夏季)、リオデジャネイロ五輪108億ドル(2016年夏季)とそれほどは変わらない額である。
 また、予算だけではなく、関わる人数も多い。

 選手数はオリンピックが11,090人、パラリンピックが4,400人。コーチ、チーム役員、審判、技術役員などを含めると、オリンピック、パラリンピック合わせて23,000人。
 組織委員会の職員数は8万人、ボランティアが11万人。加えて世界からやってくるメディアがオリンピック、パラリンピック合わせて35,500人。その他、オリンピックに関わる競技組織の関係者、オリンピックスポンサーなどの関係者を入れると、選手と裏方だけで約30万人が顔写真入りのIDカード(アクレディテーションカード)を持つことになる。

 NECがやることは顔認証によってIDカードを持つ30万人の本人確認をし、入場をスムーズに行うこと。特に重要なことは選手を待たせないことだろう。100メートルの決勝に出るファイナリストが入り口でカードをかざしたら、「機械が故障していて遅刻してしまった」なんてことが起こったら、全世界のオリンピックファンから糾弾されるだけでは済まない。

 ちなみに、顔認証でチェックするのは30万人の選手や関係者たちだけだ。1日あたり92万人、総数で780万人とされる一般の観客はチケットだけで入っていく。
 では果たして顔認証技術はどれほどの信頼性があるのか。そして入場はこれまでの方法よりもスムーズに行うことができるのだろうか。


生体認証

「心配いりません。顔認証技術を入れるとこれまでの入場よりも確実にスムーズになります。むろん、セキュリティも大丈夫です。入場にかかる時間は当社の評価では、最大50%削減することが可能。つまり目視なら50人を通すことがやっとなのに、顔認証でしたら最大で100人は通すことが可能です」

 そう断言したのは水口喜博と上司の菅沼正明。
 水口はNEC東京オリンピック、パラリンピック推進本部本部長で、菅沼は水口の上司にあたる。このふたりがなりすまし入場を防ぐ「大会のゲートキーパー」だ。

 水口は今年、50歳。大学では文科系だったから、技術者としてNECに入ったわけではない。だが、入社以来、さまざまな形で認証技術に携わってきた。
「弊社の業務記録には『1982年、警察庁様に指紋認証システムを納入』とあります。私も最初は生体認証のなかでも指紋について学びました」

 水口の説明によれば、次のようになる。
 それまでは指紋の照合は専門の担当者が実際に目で見て行っていた。それを自動化したのが指紋認証の技術だ。
 この時に開発された技術は後にサンフランシスコ警察が採り入れ、今では全米の多くの州の機関が使い、かつ、世界各地の警察も利用するようになっている。

 さて、同社が指紋認証に取り掛かってからすでに半世紀が経った。
 その他の認証技術についてだけで言えば、郵便番号の手書き文字を機械が読み取るシステム(1968年導入)も同社が開発している。
 認証技術のプロとも言える同社の研究者が顔認証に取り組んだのは1989年からで、世界的に見てもかなり早いと言える時期だった。


1965年3月の大宮局へ導入された郵便自動化実験機
1965年3月の大宮局へ導入された郵便自動化実験機


顔認証とは何か

 顔認証は世界的には「顔認識システム」と呼ばれている。しかし、表現が違うだけで、中身はまったく同じだ。

 顔認証は「人間ひとりひとりの顔は違う」ことから開発された認証方式である。たとえ、そっくりさんでも、一卵性双生児であっても、顔は部分も含めてまったく同じにはなっていない。だから、顔は生体認証のツールになりうる。

 一般に顔の認証技術がどういった環境で利用されているかと言えば、もっとも多いのは警備やセキュリティのシーンだろう。中国全土に張り巡らされている監視カメラ「天網」のような形式のそれから始まって、入国審査の顔認識システム、スマホの顔認識、銀行ATMの暗証番号の代替などに使われている。

 次が犯罪の捜査だ。中国では監視カメラ映像に映った犯罪者を自動的に追跡して逮捕したケースがある。日本ではハロウィーンに際して渋谷センター街で横転した軽自動車の上で踊っていた人間15人を捕まえた際、顔認証システムが活躍した。商店街が取り付けた防犯カメラの犯行映像を警察の顔認証システムで分析し、容疑者を特定したのである。

 次がエンタテイメントにおける利用で、コンサート会場で使われるようになってきた。チケットが高額で転売されないよう、購入者本人かどうかを見極めるため、購入時に登録した顔写真と、入場時の本人の顔をカメラが自動的にチェックするわけだ。

 東京大会の関係者もこのシステムの応用で、事前にアクレディテーションカードにある顔写真を入場ゲートでかざし、同時に関係者本人がカメラチェックされ、そして入場することになる。


 水口の上司、菅沼正明は生体認証のなかでも、指紋、静脈と違い、顔認証はこれまで一般の人々にはなかなか受け入れられなかったことがあると教えてくれた。

「日本社会では顔認証自体があまり認められていなかったんです。一般の人は顔認証と自分が買ったものが紐づいてしまうのは困るという意識を持っていました。たとえば病気の本を買ったことが記録に残るのは嫌だと心配が先に立つ。実際には記録には残りません。しかし、心理的に見られていると感じるのでしょう。
 もうひとつは、顔と何かを照合すると聞くと、犯人の顔写真、犯人捜しというイメージが強いようです。それもまた抵抗があるんですね」

 一般の人間は顔認証に使用するカメラと街頭にある「防犯カメラ」を同一視している。
だが、ふたつはまったく別のものだ。

 日本の町にある防犯カメラはそれ自体で顔認証をして指名手配犯を見つける機能を持っているわけではない。コンビニなどの店内にある防犯カメラと同様で、画像を蓄積する機能を持つだけだ。

 ただし、中国には前述の「天網」という街頭カメラがある。顔認証を利用し、さらに「監視カメラ 」の役目も果たしている。画像は蓄積するだけではなく、積極的な犯人捜しに利用される。

 アルゼンチンの首都ブエノスアイレスから30キロの距離にあるティグレ市では犯罪を減らするために、顔認証をして、指名手配犯を探したり、迷子を見つけたりすることもできるようになっている。これもまた中国の「天網」と同じ利用方法だろう。
 ところが、日本ではそういった利用の仕方はできない。
 政府が個人情報を利用することに寛容な国では犯罪の監視や犯人の捜索のために街頭カメラを利用することができる。しかし、日本の民意はそれを良しとしない。だから、日本の街頭カメラは画像情報を蓄積するだけの防犯カメラの役割しかないのである。


《後編に続く》

野地秩嘉(のじつねよし)
1957 年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』など多数。『トヨタ物語』『トヨタ 現場の「オヤジ」たち』がベストセラーに。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。近著は『スバル ヒコーキ野郎が作った車』(プレジデント社)。


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