
『TOKYOオリンピック物語』の著者、野地秩嘉氏の新連載第1回目は、日本電信電話株式会社(以後NTT)から光の最新実用技術を紹介します。後世に残る業績「レガシー」、1964年の東京オリンピックでは「ピクトグラム」と呼ばれる絵文字によるサインシステムが初めて本格的に導入され、その後世界に広まっていきました。「みんさく」ではTokyoオリンピック2020で期待される各社さまざまな「技術レガシー」に注目します。今回は、「技術レガシー」の定義を行うとともに、NTTが披露するフォトニクス(光)技術を探っていきます。
前回オリンピックのレガシーを作った男、亀倉雄策
レガシーとは後世に残る業績をいう。東京でオリンピックの開催が決まった2013年以降、国内では「次の大会でもレガシーを残さなくてはならない」という声が強調されるようになった。
これまでのオリンピックには代表的なレガシーがある。たとえば、五輪のオリンピックマークが導入されたのは1914年(1912年ストックホルム大会の後)だった。
次いで、初めて聖火が灯されたのは28年のアムステルダム大会である。聖火リレーが行われたのは36年、ヒトラーとナチ党が関わったベルリン大会だった。
1964年東京オリンピックではピクトグラム、つまり、絵文字によるサインシステムが初めて本格的に導入された。アジア初のオリンピックで各国から選手や関係者が来日した際、トイレなどの公共施設を英語、フランス語、スペイン語、中国語、ロシア語など各国語で記載していたら煩雑になる。そこで、どこの国の人でもひと目見たら理解できる絵文字サインが開発された。
72年のミュンヘン大会では大会マスコット、ヴァルディという名前のダックスフントを模したキャラクターが登場している。
ここに挙げたものはいずれも「オリンピック」のレガシーだ。しかし、公式マークやピクトグラム、マスコットなどはワールドカップなどの各スポーツの国際的イベントでも採用されている。さらにスポーツイベントに限らず、国際会議、祭り、フェスティバル、トレードショーといったイベントでもマーク、マスコットは欠かせないものになった。
レガシーのなかでも世界に広まったのがピクトグラムだろう。新型コロナウイルスの蔓延で現在は各国との交流が低調になっているが、近年、世界を行き来する人の数は増える一方だった。どこの国を訪れても、到着した空港の案内表示から始まり、市内への交通案内、トイレ、劇場、美術館の位置を示す表示を担っているのはピクトグラムだ。ピクトグラムがない国はもはやなくなった。
ピクトグラムからの応用で始まったのが日本発のデザインシステム、携帯やスマホで使われるemoji(絵文字)だろう。☺、(・∀・)、👍などは世界共通語になっている。

さて、かつての東京オリンピックでピクトグラムを「使えばいい」と組織委員会に示唆したのはグラフィックデザイナーの亀倉雄策だった。東京大会の大会マーク、さらに公式ポスターの作者で、日本デザイン界を代表する人物である。
慧眼だった亀倉はピクトグラムの価値をいち早く認め、統括者としてデザイン評論家の勝見勝を登用した。勝見は田中一光、杉浦康平、福田繁雄といった俊英を集め、ドリームチームを結成。ピクトグラムをデザインさせたのである。
また、亀倉は記録映画史上に残る市川崑の作品「東京オリンピック」の題字を描いてもいる。さらに、黒澤明が記録映画の監督を辞退した後、組織委員会に市川崑の起用を勧めた男でもある。東京オリンピックの選手村で当時のホテル業界のコックたちが日本初のシステム調理を行った際、試食会で調理長の村上信夫を激励している。
亀倉は往時の東京オリンピックではデザインだけでなく、各ジャンルにかかわったプロデューサーでもあった。
生前、わたしが行ったインタビューではレガシーについて、こう語った。
「東京オリンピックで後世に残ったデザインがふたつある。僕がやったポスターとそれからピクトグラムだ。だって、それまでは日本国中、どこへ行っても便所、手洗い、厠と書いてあったんだよ。それがあの絵文字のマークにがらっと変わったんだから、それは大した仕事だ」
レガシーとは思いつきではない。高度な技術が支える発想だ。
亀倉雄策が残したふたつのデザインレガシーについて、ピクトグラムに関わったグラフィックデザイナー福田繁雄はこう解説している。
「亀倉さんは僕の親分でもあり、日本のグラフィックデザイナーの親分です。尊敬しています。しかし、彼よりも優秀なデザイナーはいるんです。亀倉さんは絵が苦手だったから、イラストの作品は少ない。写真のポスターも実は少ない。ほとんど抽象的な形の組み合わせしかない。
そして、抽象的な形にせよ、美的センスが飛びぬけて優れていたわけではありません。でも、あの人のやった仕事はどれも後世に残るものになった。シンプルな形だけれど、考え抜かれたもので、そして、職人の高度な技術がないと成り立たないデザインなんです。
大阪万博(1970年)のポスターがいい例です。現物はリトグラフで、黒地に金色のごく細い線が放射状に走っているものです。
実際に刷るとなったら、金色の線を載せるところだけを最初に白く抜いておかなくてはならない。黒地にすぐ金色のインクを載せても、黒が強いから、金色にはならないんです。つまり、針のように細い線の上にもう一度、金色の細い線を載せる細かい作業がいる。ふつうは絶対にズレます。デザイナーにとっては考えることはできても現実に作ることは不可能だから、そういったデザインでコンペに出そうとは思わない。
ところが亀倉さんは不可能を可能にしてしまう。ひいきにしていた印刷会社の熟練職人に無理やりやらせるんです。おそらく血へどを吐くような作業だったでしょう。職人はリトグラフをやっと12枚刷った。そのうち、色がまったくズレなかったのはたった一枚だけでした。亀倉さんはその一枚をコンペに出して万博のポスターを手中にしてしまう。運のある人だし、色や形や美しさよりも職人の技術を信頼し、職人の技術の上に君臨したデザイナーでした」
この発言からわかることは東京オリンピック2020でレガシーとなるものとは際立った発想だけではなく、高度な技術に支えられたものでなくてはならないと言える。
本連載では東京オリンピック2020の技術レガシーとなるものを採り上げていくが、選ぶ基準はかつて亀倉雄策が行った仕事に準ずることにした。
単純な思いつきはレガシーにはならない。作者や組織が押し付けたものもレガシーとして残ることはない。
突き抜けた発想から生まれ、しかも、高度な技術と持続的な作業が支えなくてはならない。
なんといってもピクトグラムは単純なデザインひとつを作るために田中一光、杉浦康平、福田繁雄といった超一流のグラフィックデザイナーがさんざん頭を悩ませて作ったものだ。彼らが力を注いだピクトグラムが後世に残るのは当たり前ともいえる。

NTTと最新技術
わたしは亀倉雄策にインタビューしたことがある。
帰り際に、すみません、先生の代表作をひとつあげてくださいとおそるおそる頼んだら、「バカもの」と怒鳴られた。
「キミ、ひとつに絞ることなんてできんよ。俺のはどれも代表作なんだから。昔は『五輪マークのカメさん』と言われたもんだが、この頃はNTTマークの亀倉さんと言われるな。そして、相手は『ああ、あのぐるぐるしたデザインのNTTマークですね』と言うんだ。あんなのは誰にでも描けると思っているんだろうな」
亀倉にとってNTTのコーポレートマーク(ダイナミック・ループという)は自信作だった。他にもニコン、リクルートといった企業のコーポレートマークをデザインしているけれど、企業のCI(コーポレート・アイデンティティ)のなかでは、NTTマークがナンバーワンの出来だと思っていた。
「ぐるぐるしたところのバランスはあれしかない。ほんの少しでもバランスが崩れると醜い形になる」(亀倉)
亀倉がマークをデザインしたNTTは1964年当時、日本電電公社だった。民営化した1985年にNTTはCIを行い、亀倉がコーポレートマークを含むデザイン設計をしたのである。亀倉にとってみればNTTは特別に愛着のある会社だった。

NTTの前身、電電公社は東京オリンピックにおいて、競技データの伝送を行った。電話線でデータ伝送が実用化されたのは日本初のことで、それは世界でもトップレベルの技術だった。
思えば、オリンピックというスポーツイベントに民間企業が大規模に最新技術を投入したのは前回の東京大会が初めてだった。
当時の組織委員会は「エレクトロニクスの粋を集めた科学の祭典」と謳っているが、日本の1960年代は高度成長により、科学技術が一気に進歩した年代だった。成長途上の日本企業は我も我もと技術を持ち寄ったのである。
以後、オリンピックは世界最大のスポーツイベントであるとともに、最新技術のショーケースともなった。CESやサウスバイサウスウェストといったIT技術のショーよりもさらに幅広いジャンルの最新技術が実見できるイベントなのである。
東京オリンピック2020でNTTはオリンピック・スポンサーとなり、前回の東京大会よりも多くの最新実用技術を発表する。
責任者は川添雄彦。NTTの役員で研究所を統括している。子ども時代をアメリカで過ごした男だ。
わたしは彼とは横須賀にあるNTTの研究開発センターで会った。
川添は言った。
「野地さん、スマホとかパソコン、ずーっと使っていると熱を持ちますよね。現に、そのスマホも熱くなっているんじゃありませんか」
わたしがスマホをいじりながら、挨拶したので、それをとがめられたのかと思った。しかし、違った。彼は「みんな、スマホが熱を持つまで駆使しているんですよ」と話を始めた。
「ムーアの法則って言葉を聞いたことはありますか。ムーアとはインテルの創業者のひとりでゴードン・ムーアのことです。ムーアは言いました。
『同じ面積当たりの集積回路上のトランジスタ数は18カ月ごとに倍になる』
つまり、スマホをはじめとするデバイスのなかのトランジスタはどんどん増えているわけです。しかも、能力全開で動いているから熱を持つ。あまり、熱を持つと動作異常が起こったり、発火まではいかないにせよ、故障の原因になります」
わたしはなるほど、と思った。
川添は「デバイスだけじゃないんです」と続けた。
「ネットワークの負荷も大きくなっているんです」
彼は世界の情報量がいかに伸びているかを語った。
────インターネットが社会に普及したのは25年前の1995年代以降で、マイクロソフトのウィンドウズ95が登場してからのことだ。それから現在までデータの流通量は増加の一途をたどっている。
日本国内のインターネットにおける1秒あたりの通信量は2006年から現在までで百数十倍になった。今後もますますデータ量が増えていくことになると、熱を持ったデバイスで動作不良に悩みながらコミュニケーションするのが日常になってしまう。
彼はあらためて宣言した。
「そこで、私たちが延々と研究を続けてきたのがフォトニクス、つまり、光による通信技術への変換なんです」
川添は2020東京オリンピックを「NTTはエレクトロニクスだけではなく、フォトニクスの粋を集めて支える」と胸を張った。
「光による新しいネットワーク世界を進めていかないとデータ伝送が限界になるだけでなく、エネルギー消費を抑制することはできません。NTTって、電線の保守している会社だと思っている人の方が多いかもしれませんけれど、もはや国内のほぼ全域に光ファイバーケーブルがはりめぐらされているんです」
《後編に続く》
野地秩嘉(のじつねよし)
1957 年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヤンキー社長』など多数。『トヨタ物語』『トヨタ 現場の「オヤジ」たち』がベストセラーに。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。近著は『スバル ヒコーキ野郎が作った車』(プレジデント社)、『トヨタに学ぶカイゼンのヒント71』(新潮選書)。
▽みんさくメルマガ登録用メールアドレス
みんさくメールマガジンにご登録いただくと野地秩嘉氏の新連載「
minsaku-cp01@ek21.asp.cuenote.jp
【ご登録の流れ】
- 上記の登録用メールアドレス宛に空メールを送信
- 自動返信される「仮登録メール」内の本登録URLを押下
- 登録完了!